学生運動華やかな中、読書会を主宰し、同僚や後輩たちに国のあり方、人としてのあり方を説き議論していた、そんな大学生でした。 もちろん大学には学ランで通っていました。
米国、ウエスタンミシガン州立大学のサマーセミナーへ参加したときの一枚。よく見えませんが一応ホワイトハウスの前だそうです。語学講習と研修旅行で約二ヶ月間の滞在でした。
釣りは昔からの変わらぬ趣味のひとつです。左は現在早稲田大学の法学部長になられた田山先生。田山ゼミでは忠さんのほうがふけて見られ、よく先生と間違われていたらしい。。。
友人と二人、リュック一つでのインド、ネパール二ヶ月間の武者修行。カトマンズ郊外のネパール人テントの中で。
早稲田大伝統の100Kmハイクに、ワラジ、袴姿で挑戦。
早稲田ラクビー部の同期生には、ラクビーファンなら誰でも知っている、後の日本代表監督の宿澤氏(前列右から二人目≪故人≫)も、又前列一番右側は親友の星野氏、忠さんは後列左から二番目です。当時の仲間を今も大切にしているそうです。
田山ゼミのみんなとの合宿 田山ゼミは普段の授業はなく、みんなで集めたカンパで合宿をして、一気に3か月分の授業、勉強内容をまとめて行っていたそうです。もちろん、みんなを説得し、課外合宿を実現させた発起人は、忠さんあなたです。
大学卒業後、父、博に「新聞記者と政治家だけにはなるな!」といわれていたのにも関わらず、父に黙って受けた毎日新聞の入社試験に合格。社会部の記者として宮崎支局、長崎支局と移動し、次の福岡総局では県警キャップを勤めました。最後の赴任地となった東京本社では内政取材班で中央から地方自治のありかたをウォッチング。事件記者の腕を見込まれて「日航機墜落事故」の現場に一番に駆けつけ、山に一週間以上泊り込みで歴史に残る大事故の記事を送り続けました。現場キャップを勤めたのち、退職。政治の道へ進むことを決心したのでした。
当時の富士銀行前での取材風景。「古川の行くとこにトクダネあり!」と敏腕記者ぶりは有名だったそうです。
昭和57年、囲碁本因坊戦の観戦記者として写真は当時の小林光一(名人・棋聖・十段)と
第2局対局の朝の記念写真。
東京で幸せな日々を過ごしていたのもつかの間。ある日突然、「明日福岡に帰るから。」と満知子に一言。 家族5人でフェリーに乗り込み福岡まで帰り、福岡県議会議員選挙(早良区選出)に出馬。早良区の皆様から16、132票を頂きましたが、惜しくも僅差で敗れました。しかし皆様が古川忠を信頼して投じてくれたこの16、132票が今の古川忠の原点となっています。
以後県議会議員3期連続当選、のち、平成13年、平成16年の参議院選挙に出馬するも次点にて惜敗。その後国政への再々挑戦を、苦渋のすえ断念。平成19年4月の県議選にて県政へ復帰(4期目)を果たしました。平成23年4月の選挙では、県内最高の26,912票もの貴重な票を頂き(5期目)、責任の重さを感じ県民の声を行政側に糾しながら現在に至ります。平成27年4月、現在(6期目)
飯よりも祭りが好き。お人よしで涙もろい博多んもん。ハッピに締め込みも凛々しい3才の忠。
子供と一緒に山笠にでるのが夢でした。長男、貫祐を抱いて。
≪子ども達に明るい未来を≫
「 ふつうの暮らしを愛したい。もっとよくしたい。 」政治を身近に、明るいものに・・・
この思いを実現するため、県政への決意を固めたそうです。
2度目の挑戦で初当選をはたし、以来6期18年間にわたって、真剣に議会活動、後援会活動、そして、地域の方々との活動を行ってきました。代表質問では、ほかの議員が緊張するほどに鋭い質問をぶつけ、本当の政治家としての毅然とした姿勢を貫きとおしてきました。