大学卒業後、父、博に「新聞記者と政治家だけにはなるな!」といわれていたのにも関わらず、父に黙って受けた毎日新聞の入社試験に合格。社会部の記者として宮崎支局、長崎支局と移動し、次の福岡総局では県警キャップを勤めました。最後の赴任地となった東京本社では内政取材班で中央から地方自治のありかたをウォッチング。事件記者の腕を見込まれて「日航機墜落事故」の現場に一番に駆けつけ、山に一週間以上泊り込みで歴史に残る大事故の記事を送り続けました。現場キャップを勤めたのち、退職。政治の道へ進むことを決心したのでした。
当時の富士銀行前での取材風景。「古川の行くとこにトクダネあり!」と敏腕記者ぶりは有名だったそうです。
昭和57年、囲碁本因坊戦の観戦記者として写真は当時の小林光一(名人・棋聖・十段)と
第2局対局の朝の記念写真。