感動から生まれる志 | 福岡県議会議員 古川忠後援会事務所 オフィシャルサイト

コラム

感動から生まれる志

 夢よりも志を 「夢」という言葉を学校は好んで使う。「夢を持とう」「夢を大切に」・・。ほんわかとして、言ってる方も聞いてる方も何となくいい気分になる。だが夢と言ったって、金儲けをする夢から宇宙旅行をする夢。人間が鳥のように空を飛ぶといった絶対に有り得ない夢だってある。そんな夢を見ること自体は微笑ましくて否定などしない。が、何にも(努力や行動を)しないで夢だけ見て、叶えられないからと暴れたり自傷する子供達、いや大人も何と多いことか。だから夢の氾濫に対し「夢は寝てたって見られる。それより夢を実現させる方法こそ教えなくては」と、多少皮肉混じりに言いたくなるのだ。そして、少なくとも中・高校生ぐらいになったら、夢よりも志を語ってもらいたいと、私は思う。

 「偉人の日」への思い 「夢破れて・・」「志半ばにして・・」などの使い方もあって、言葉の上では夢と志の違いはあいまいだが、夢はただ有りたい結果だけを差すのに比べ、志はそこまでの気構えや覚悟なども含めた言葉のようである。かって私の通った中学校には「偉人の日」という行事があった。その日は生徒達が、図書館の偉人伝などで見つけた人物についての弁論大会が行われた。私もだったが、友人達はたとえ書物の中であれ、その偉人に初めて触れた感動と憧憬の気持ちを必死に語り続けた。しかし、正直言って、自分がナポレオンや野口英世のようになれるとは思ってはいなかったようである。

 その様な英雄、偉人になれるかどうかは分からないが、ただその人物が行った努力や忍耐、勇気、人間愛や真心だけは何とか真似てみようと思ったものである。志というのは、この様な心の動きに近いのではないか。「偉人の日」に何か教育上の差し障りでもあったのだろうか。いつの間にかこの行事はなくなった。今思えば恐らく「戦後の平等教育に合わない」という教師の声が大きくなって止めさせられたのであろう。

 志というのは人としての凄さ、その生き方に接した感動から自然に生まれるものではないか。そんな大切な教育を否定して、卒業式に「私は将来大金持ちになりたいデース」なんて、馬鹿な夢を語らせるのに一体何の意味があるのだろう。

 教育に感動を  教育再生運動を起こそうと、昨年同志を募り、NPO法人「教育オンブズマン福岡」を設立した。その際、様々な議論の末決めた活動のキーワードは「教育に感動を」であった。そのヒントは、次に紹介する或る中学生のエピソードである。

 三年前、福岡市西区の中学校の運動会で、生徒が初めて六段ピラミッドに挑戦した。厳しい練習やケガを乗り越え、心配する父母や先生さえ黙ってしまう熱意と団結で、その日見事に六段ピラは成功した。やり遂げた感動にむせぶ生徒、涙ぐむ父母や先生達。その感動や生徒達が初めて体験した奥深いものだったに違いない。誰か一人が潰れても立たないピラミッド。努力、忍耐、友情や献身を経ての感動は、彼らにある種の健全な感性を宿した筈である。そして書物に触れる時、あるいは素晴らしい人物に出会った時、感動を覚え、憧憬を抱き、志の芽を育てるに違いない。

 幸い日本には、心を揺るがす先人達の歴史が山ほどある。そして、志は人の心から心へと受け継ぐことが出来る。「志が高い」と言う時、大金持ちになることを想像する人はまずいない。志には、正々堂々、勇気、廉潔、献身等々、若者こそが感じる筈の高い香りがあるのである。     「県民と教育」にも掲載

                               (平成15年1月)

古川 忠

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