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コラム

魂なき法案でいいのか!!

  -年金ドミノ現象を憂う-

 年金改正法案の審議過程で次々に発覚した国会議員の年金不払い未加入問題には、大きく二つの問題点があります。ひとつは、老後や一家の生活設計の主要な糧となる年金について、国民は不安や、またある種の期待など、切実な思いでそのあり様に注目していました。しかし、国会議員にとっては、年金はまったく切実な問題ではなかったのです。

 もっと言えば議員年金で十分暮らせるから、あるいはたくさんの資金があるから、そんなものには関心すらなかったというところでしょう。その国民と国会議員の意識の大きな乖離をはしなくも露呈してしまいました。国民にとって痛みを強いる法案であればなおさら、それを審議する人達に、その思いや痛みを共有してもらいたいと思うのは国民の当然の気持ちです。それを踏みにじった罪は大きいと思います。魂のこもっていない生活関連の重要法案が、しかも与野党の駆け引きの道具とされ国会を通過しようとしているのです。

 又、この問題は年金ドミノ現象に隠れて年金の本質的な議論がなされていないことです。保険料の徴収しくみや将来の消費税(目的税)等に関する議論。また、グリーンピア事業に見られるような、「年金基金」の事業の失敗と責任。そのあり方の見直し等総てが先送りにされています。

 もっとまじめに議論しろ、そして将来の姿を明確にしてくれ、というのが国民の素直な気持ちと思います。与野党問わずゾロゾロでてくる年金疑惑、また、政党間の駆け引きに嫌気をさした国民の政治離れがさらに進むことを心配しています。こんな時だからこそ参院選には是非参加をしてください。

                              (平成16年7月)

古川 忠

「拉致問題」と「国益」

 今、お茶の間政治評論家にとって、最も関心の高い、辻元問題は、敢えてもう少し推移を見てから論じたい。政策秘書給与のゴマかしは、週刊誌の報道の時点で、これはクロだと直感した。その事は勿論重大な国民への背信行為だが、その後の政治家としての言動や身の処し方も、又問題と思うので、もう少し様子を見たいと思うからだ。

 それよりも国家にとって重要なのは、我々同朋の北朝鮮への拉致問題である。もう二十年近くも前になるが、私が毎日新聞の記者時代に「第十八富士山丸事件」というのが発生した。北朝鮮から一人の男が日本に亡命。これを政府が受け入れたことの報復として、たまたま北朝鮮に入港した貨物船「第十八富士山丸」の船長らが、スパイ容疑をデッチあげられて逮捕、情報を遮断されたまま、七年間もの拘留生活をさせられた事件である。

 第一報の新聞の扱いは、「一段記事」、いわゆる「ベタ」という小さなものだったが、船長がたまたま福岡市早良区の人だったこともあり、記憶している方も多いのではないかと思う。 ただ、その記事が出た時、同僚の記者に、「この記事の扱いは余りにも小さ過ぎる」「もっと大きく扱い、北朝鮮の理不尽な行為に強く抗議すべきだ」などと、話したことを、今、又、無念な気持ちで思い起こしている。

             ◇                  ◇

 当時、いや、今もあまり変わらないが、日本は朝鮮半島に対し、卑屈なまでのコンプレックスを抱き、過度な遠慮が働いていた。政党では、当時の社会党のみが、北朝鮮との交流を持っていたが、その付き合い方は「北朝鮮は社会主義の立派な国だ」というものであったから、何をかいわんや。少し言葉は悪いが、「強盗と仲がいいのを自慢する政党とは一体何なのか」と、私は批判した。

 そのころの日本の風潮はというと「国益」という言葉が、マスコミや大衆、とりわけ進歩的知識人から白眼視され、国籍のないコスモポリタンが大流行。いや、国政を預かる政治家までもが、日本よりも他国の国益を優先させる発言を堂々としゃべって憚らなかったのである。 拉致事件は、あるいはこの「第十八富士山丸事件」以前にもあったかも知れないが、少なくとも、この時にもう少し、政府がキチンとした態度を示していたら。日本が、自国の民への人権侵害にもっと敏感に毅然と対応できていたら。それ以降、日本人が、日本から連れ去られ、或いは有本さんの様に、海外から巧みに北朝鮮へ誘拐されるのは幾らかでも防がれたのではないか。悔やまれるのである。

             ◇                  ◇

 このところ、北方領土に対する鈴木宗男発言で、民主、社民、共産党までもが、俄かに「国益」などと叫んでいるが、いわゆる旧社会党系の人々に、今更そんな言葉を言える資格があるのか。国益とまで大上段に振りかぶらずとも、少なくとも日本人、又、日本の文化、歴史、伝統を踏みにじられて、それを良しとしてきた、政党や進歩的知識人の罪悪は計り知れぬ程大きい。

 結果、今、横田めぐみさんの御両親をはじめ、多くの我が同朋が苦しみ、あるいは見殺しにあっているではないか。もっといえば、日本人の心までもむしばんでしまったのではないか、と私は思っている。有本さんの拉致をめぐって再び起こった論議を通じ、「国益」の本当の意味を、日本人として考えてみる絶好で、最後のチャンスとして欲しいものである。

                              (平成15年3月)

古川 忠

感動から生まれる志

 夢よりも志を 「夢」という言葉を学校は好んで使う。「夢を持とう」「夢を大切に」・・。ほんわかとして、言ってる方も聞いてる方も何となくいい気分になる。だが夢と言ったって、金儲けをする夢から宇宙旅行をする夢。人間が鳥のように空を飛ぶといった絶対に有り得ない夢だってある。そんな夢を見ること自体は微笑ましくて否定などしない。が、何にも(努力や行動を)しないで夢だけ見て、叶えられないからと暴れたり自傷する子供達、いや大人も何と多いことか。だから夢の氾濫に対し「夢は寝てたって見られる。それより夢を実現させる方法こそ教えなくては」と、多少皮肉混じりに言いたくなるのだ。そして、少なくとも中・高校生ぐらいになったら、夢よりも志を語ってもらいたいと、私は思う。

 「偉人の日」への思い 「夢破れて・・」「志半ばにして・・」などの使い方もあって、言葉の上では夢と志の違いはあいまいだが、夢はただ有りたい結果だけを差すのに比べ、志はそこまでの気構えや覚悟なども含めた言葉のようである。かって私の通った中学校には「偉人の日」という行事があった。その日は生徒達が、図書館の偉人伝などで見つけた人物についての弁論大会が行われた。私もだったが、友人達はたとえ書物の中であれ、その偉人に初めて触れた感動と憧憬の気持ちを必死に語り続けた。しかし、正直言って、自分がナポレオンや野口英世のようになれるとは思ってはいなかったようである。

 その様な英雄、偉人になれるかどうかは分からないが、ただその人物が行った努力や忍耐、勇気、人間愛や真心だけは何とか真似てみようと思ったものである。志というのは、この様な心の動きに近いのではないか。「偉人の日」に何か教育上の差し障りでもあったのだろうか。いつの間にかこの行事はなくなった。今思えば恐らく「戦後の平等教育に合わない」という教師の声が大きくなって止めさせられたのであろう。

 志というのは人としての凄さ、その生き方に接した感動から自然に生まれるものではないか。そんな大切な教育を否定して、卒業式に「私は将来大金持ちになりたいデース」なんて、馬鹿な夢を語らせるのに一体何の意味があるのだろう。

 教育に感動を  教育再生運動を起こそうと、昨年同志を募り、NPO法人「教育オンブズマン福岡」を設立した。その際、様々な議論の末決めた活動のキーワードは「教育に感動を」であった。そのヒントは、次に紹介する或る中学生のエピソードである。

 三年前、福岡市西区の中学校の運動会で、生徒が初めて六段ピラミッドに挑戦した。厳しい練習やケガを乗り越え、心配する父母や先生さえ黙ってしまう熱意と団結で、その日見事に六段ピラは成功した。やり遂げた感動にむせぶ生徒、涙ぐむ父母や先生達。その感動や生徒達が初めて体験した奥深いものだったに違いない。誰か一人が潰れても立たないピラミッド。努力、忍耐、友情や献身を経ての感動は、彼らにある種の健全な感性を宿した筈である。そして書物に触れる時、あるいは素晴らしい人物に出会った時、感動を覚え、憧憬を抱き、志の芽を育てるに違いない。

 幸い日本には、心を揺るがす先人達の歴史が山ほどある。そして、志は人の心から心へと受け継ぐことが出来る。「志が高い」と言う時、大金持ちになることを想像する人はまずいない。志には、正々堂々、勇気、廉潔、献身等々、若者こそが感じる筈の高い香りがあるのである。     「県民と教育」にも掲載

                               (平成15年1月)

古川 忠

諫早湾干拓 ”壮大な無駄”

 長崎県の諫早湾干拓事業の中止か継続かで福岡、長崎などの三県漁業の対立が続く中、四月末から約一ヶ月間、排水門を開放しての調査が行われた。有明ノリの昨年の不漁で、干拓がその原因に上げられた為に行われた調査だが、今年のノリは大豊漁。わずか一ヶ月の開門調査で、有明海全体の水質や資源への影響が分かる筈もなく、又々、問題先送りと、お互いの“顔立て”のムダなことを繰り返しただけだったのではなかろうか。

 そもそも、この干拓事業は、三十年以上も前から計画されたものだ。私は丁度そのころ、毎日新聞・長崎支局の諫早担当として、この問題に関わっていた。 当時は、長崎南部総合開発計画と呼び、規模は、この諫早湾干拓の数倍もあった。平地の乏しい長崎県にあって、農地と飲料水(淡水)を確保するというものだったが、規模が大き過ぎて有明海の環境に対する影響が心配され、規模を大幅に縮小して生き残った事業である。 周辺の漁業権さえ買い取れば、環境調査等が少々ズサンでも工事着工できるとした農水省の態度に反発した。漁業者以外でも魚釣りや貝掘りを楽しむ「入り会い権」。毎日海を見て心を和ませる「眺望権」は、どうするのか、など様々なことを考えさせられた事業であった。

 現在福岡で博多湾埋立をめぐる干潟保存運動がまだ続いているが、そのモデルケースでもあった。 環境保護運動の先駆者的存在であった山下弘文氏=故人=とも、様々な議論をしたのを思い出す。 漁業権交渉が長引いたこともあるが、お役所のノロノロ仕事の典型で、事業が十年、二十年とずれ込むうちに、農業や経済情勢が急速に変化し、この事業の目的そのものが問われたのだ。しかし、農水省は、これを、いつの間にか洪水から守る治水事業にスリ換え、とにかく事業を進めてしまった。

 良くても悪くても着手したものは無理矢理押し通す役所仕事の典型である。 あの埋立工事のギロチンで閉ざされた土地をこれからどう生かそうというのか全く展望もない。豊かな干潟を単なる荒野にしてしまったことと、三千億円余の税金がドブに棄てられるだけの話である。しかも残ったのは、漁民同士のいがみ合い。血税を使って面子を保った農水省の官僚と、工事を通じて幾ばくかの利益をかすめとった“者”だけが、ほくそ笑んでいるのか も知れない。

 水門開放調査が始まった直後、久し振りに諫早湾に出向いた。「こんな調査で何が分かるのか、有明海はもう死にかけとう」。案内をしてくれた若い漁師のつぶやきだ。 外務省、農水省など、次々に起こる不祥事や無責任体制。また、これらについての、官僚や政治家達の発言を聴いて、この人達の発言は、すべて「自分の為」であって、国や社会の為ではない、と国民皆が悟ったのではないか。日本は今、根腐れを起こし始めている。

                               (平成14年8月)

古川 忠

改革に欠かせぬ勇気

 秘書給与のゴマカシ疑惑、議員本人や秘書の収賄容疑等で、四人もの国会議員が辞職に追い込まれ、二人が所属政党を除名された。こんな異常な国会は未だ記憶にない。これらは以前からあった構造的問題なのだが、会期が終わってみれば、これで国会が、はた又、国会議員の意識がどう変わったのだろうか… とりわけ、与党、野党で最も国民の人気が高く、ある意味、一番華々しく活躍していた田中真紀子さんと辻元清美さんの辞職は、たくさんの国民が失望し、残念にも思ったことだろう。それに比べ、他の国会議員の多くは、内心ホッとしたり、むしろ喜んでいるのではないかと想像ができる。二人が国会でそこまで嫌われたのは単なるヤッカミからではない。二人のやり方は稚拙だったり、ピンチでの経験不足から身の処し方が未熟だったりはしたが、この二人の女性議員のある種“勇気”が、他の議員、とりわけ男性議員には、恐怖すら感じられたのではないかと、私は敢えて穿ってみたくなるのである。

             ◇                   ◇

 現に最大派閥の実力者をバックに官僚らを恫喝し、同僚議員には“小遣い”を配って権勢を広げていった鈴木宗男氏の不正と非常識を暴き出し、追い詰めたのはこの二人ではなかったか。鈴木氏の証人喚問の後、まるで凱旋将軍を迎え入れるように拍手していた或る派閥の風景。鈴木氏とガッチリ、握手してい た我が党行政改革本部長の大きな後姿は、テレビを通じて国民の目に異様に映った筈である。 私が、ここで言いたいのは、改革には、それがたとえ蛮勇であっても、並々ならぬ勇気がいるということである。

             ◇                   ◇

 今の政治に最も欠けているのはこの勇気ではあるまいかと、これまでの県議会の経験を通じても、国会を見ていてもずっと思ってきた。 改革の絵を書くことがうまい議員はいる。改革を唱えるだけの議員はもっとたくさんいる。しかし、改革を自ら行う議員は、わずかである。改革には痛みを伴う。特に、旧態依然とした政治の世界では、外に向けた、前向きな痛みの前に、身内の抵抗に悩まされることが多い。 その中を、いかに、うまく風当たり少なく泳ぎきるか。そして、ポストにありつき、何らかの旨味を頂戴する。どこの社会にもあると言っては失礼と思う。この厳しい時代にもかかわらず、永田町や霞ヶ関は、未だにその様な社会なのであろう。 小泉改革の迷走ぶりも、この社会ならば仕方ないか、と言うわけには参らぬ。小泉総理にだけは、改革の勇気を失ってもらっては困る。政治に大儀は欠かせぬ。改革の大儀の為に、一人でも多く、身を捨てる覚悟の政治家を国民は望んでいる筈である。

                               (平成14年5月)

古川 忠

田中外務省更迭に見える三つの問題点

 日本で行われたアフガン復興会議に、外務省が、日本のNGO団体の参加を一時拒否したことをキッカケに、国会が混乱。田中真紀子外務大臣が更迭されるという思いがけない展開に発展した。 このことで、マスコミは判官贔屓ということもあって、田中外務大臣を大いに持ち上げ、結果として、首を切った小泉総理の人気に少なからずかげりが見えてきたようだ。国会の混乱を避けるという名目の真紀子外しだが、真紀子大臣就任以来のゴタゴタ続きの中で、如何に、官僚が、特に外務省が、特権意識や仲間意識が強く、内向きの仕事ばかりをしてきたつまらない、あるいは害のある役所であるかを露呈してしまった。

             ◇                   ◇

 問題は三つある。一つは「お上に逆らうものは、許さない」とばかり、その権限をカサに、民間をイジめて全く痛みを感じない、という官僚組織。地方の小さな役所でもそうだが、役人独特の感覚である。もちろん、民間会社の社長でも、自分に逆らうものは嫌うものだが、民間の場合は、そんな愚昧な経営者がいるところは、いずれは潰れる憂き目に遭う。特に、社会の変化が激しい今日では、そんな会社は必ず時代に取り残されるのである。

 ところが官庁だけは、倒産の心配もない。本当の経営者でもないから、その時々が大過なく、言い替えれば組織と仕事(質ではなく一定の量)を守られれば、それは立派な役人なのである。年齢と共にポストも給料も自動的に上がる仕組みになっている。その様な組織が今これだけ、世間の風を浴びている時に、それに気付いて、自ら改革しようという奇特な公務員は、全体の5パーセントもいないのではなかろうか。しかも今、国が 危急存亡の時に、その一番大切な役割を担うべき外務省がこの有様。改革を拒み、どっぷりとぬるま湯につかった、日本の役人制度に、国民は改めて憤りを覚えたに違いない。

             ◇                   ◇

 二番目は、その外務省に働きかけた鈴木宗男氏。いわゆる政治と官僚のもたれ合いの問題点だ。外務省は、エリート中のエリート。家柄なども加味されて選ばれた役人集団。しかも、それが、ぬるま湯に何十年とつかっていたのだから、ある意味では、世間知らずのひ弱な組織体といっていい。地方でも国でも、政治家の行政への働きかけは当然あるものだが、政治家は、議会での議決権を持っているだけ、少しだけ優位にあるといっていい。それだけに、時には、政治家のゴリ押しや、圧力が効くことがある。特に、大声を出すものに弱い役人の体質がある。政治家とケンカしてゴタゴタを起こしても、自分の得には一切ならないから、少し無茶なことでも黙って聞いていた方が無難なのである。 この弱みにつけこんだのが鈴木氏である。

 他の経済官庁と違って、目先の陳情や利害にあまり縁がないから、他の国会議員が、比較的熱心にならない官庁が外務省である。だから何時の間にか、鈴木氏の言いなりの構図が生まれる。もっともODA(海外資金援助)は、その使途や経路が不透明で、結構、「うま味」があったとも推量される。とにかく、役人の事なかれ主義が、政治家を増長させ、公平であるべき行政がネジ曲げられる例は、国、地方を問わず、枚挙にいとまない。その構造の改革も又、急がねばならないのである。

             ◇                   ◇

 三番目の問題は、政権内の権力闘争で、結局は、最大派閥の橋本派やそれに組している堀内派などの、いわゆる改革抵抗勢力に、小泉総理が屈したという構図である。自民党国会議員が、国会の首班指名で、全員一致で選んだ筈なのに、小泉改革の足を引っぱり続け、今や公然と抵抗を始めている。本当に小泉総理を支えている自民党議員は、ほんのひと握りなのが現状である。自民党の改革本部などは、名前こそは「改革」だが、改 革をさせない、あるいは、自分達に都合のいい改革のみを行う、圧力団体と言う人さえいる程だ。

 小泉総理も、その様な抵抗の嵐の中で、妥協を繰り返しつつも、前進をしているのだが、今回の真紀子外相更迭は、いかにもタイミングが悪過ぎた。真紀子外相の資質はともかくも、前の二つの問題点をそのままに 、鈴木氏と外務省幹部と外相を同列に扱ったことは、国民が納得しないだろう。NGO問題をキッカケに国民に見え過ぎているだけに、国会運営上という、内輪の論理では通用しない。 小泉総理が本来嫌っていた、内輪の論理で、押し通さざるを得ない程、足元の抵抗勢力の勢いが凄まじいということかも知れない。悲しいかな、これが、今の国政の現状である。

                                (平成14年3月)

古川 忠

政治家こそ危機感を

 アメリカ同時多発テロによるアフガン戦争、パレスチナ紛争の再燃、東シナ海の不審船撃沈など、きな臭い事件の余韻の中で、2002年が明けました。国内では出口の見えない深刻な不況。なかなか進まない改革など、正に難問山積みといったところです。 小泉総理の改革への強い意思は、そのパフォーマンスを通じ、伝わってはくるのですが、今のところは抵抗勢力との駆け引きばかりが表に出て、肝腎な改革の行きつく先、その姿が見えてきません。今はまさに与野党(特に自民党)が力を合わせて 、改革を一日も早く進める時なのですが、日本の政治はいつもそうはならないのは何故でしょうか。

                                     ◇                   ◇

 「対テロ戦争」という目的であっという間に国民が一つになったアメリカは特別としても、イギリスが経済危機を乗り越えた時も、お隣の韓国がIMF管理化の経済的大ピンチを抜け出した時も、政治がきちんとその方向を示し、国民は一つになりました。 日本では今、国民の方が強い危機感を持って「改革を急げ」と言っているのに、政治の方が旧体制から抜け切れず、モタモタ、もしくは足を引っ張っているようにさえ見うけられます。 政治家は一体誰の為に、何の為に政治をやっているのか、もう一度問い直す必要があるのではないでしょうか。自分の所属する団体の利益、それにからむ利権。あるいは永田町内の権力闘争。ポストを得る為に強い派閥に擦り寄る姿。政権のある方へコロコロと態度を豹変する浅ましさ。こんなことをいつまでも続けていたら、日本は正に沈没です。

             ◇                  ◇

 政治という職を選んだ以上、どんな時でも、判断の基準は「国家国民の為」というのを貫くべきではないでしょうか。その点にさえ自信があれば、改革の手法を巡っては、小泉改革といえども、正々堂々と論陣を張り、国民の前ですみやかに方向示すべきです。表向き改革 といいながら裏で抵抗している議員が大多数を占めている現状。改革の遅れや先送りが、金融不安や、IT改革等で遅れを取ってしまった現実をしっかりと反省しなくてはなりなせん。 世界の中で、先進国はもちろんですが、ASEANのアジア諸国でさえも、素早い改革、変化を遂げようとしています。日本は彼等にもう追いつかれ、追い越されそうになっていることに、政治家こそ、もっと危機感を持つべきではないでしょうか。 末尾になりましたが、皆様には御健康にて良い年になりますことをお祈り申し上げます。

                             (平成14年1月)

古川 忠

主体性なき「参戦」 ―日本の国際貢献は何か―

 アメリカの同時多発テロをきっかけに、日本の防衛や国際貢献が再び問われている。 国会では、『テロ新法』の制定や自衛隊法の改正など、ドロ縄式法案が、バタバタと通過した。しかしながら、二十一世紀この日本は、国際社会で一体どの様な国として有り続けたいのか、結局はウヤムヤのまま。「ショウ・ザ・フラッグ」の解釈はともかく、この重要な問題さえ、又々先送りになってしまった。 九一年の湾岸戦争の時「金だけ出して…」と、世界のひんしゅくを買ったことはまだ記憶に新しい。

             ◇                   ◇

 「アメリカやイギリスの若者が家族や同胞の為に、敢えて危険に身をさらしている時に、日本だけが何もしなくても良いのか」というのは、大変辛い指弾である。かと言って、今回何か見える証をと、あわてて輸送機を一機パキスタンに「日帰り」で派遣したのも、おかしな具合である。まともに憲法議論、国防議論をしては野党はもちろん、与党内からも反発がある。マスコミの論調も気になる。といって世界の目も気にかかる。 結局はアメリカの顔色を窺いながら、今度こそは非難されない程度にやっておこう、というのがその本音ではないか。日本の主体性が感じられないのは実に寂しいかぎりである。

             ◇                   ◇

 テロは古今東西あった。テロ的な手法で強者の横暴を倒し、正義を回復した歴史もあるから、これからもテロは有り続けるかもしれない。しかし今回のニューヨークのテロは許せない。善良なビジネスマン、夢を求めてアメリカに旅した若者ら、多くの命に対し、何の思いもないとは、正に狂気である。どんな理由があるにせよこれ程エスカレートしたテロとは、徹底的に対決する必要がある。ましてや、今回は、我々の同胞、数十人もの日本人が犠牲者。その馬鹿げたテロは日本国内でも十二分に起こり得る。これは、日本自身の問題である。国会論議、又、マスコミの風潮の中に、まるで他所ごとのような白々しさがあるのは、これこそ平和ボケである。

             ◇                   ◇

 一方、問題を一層分かりにくくしたのは、テロへの対決と国際貢献とをゴチャ混ぜに論じたことにあるのではないか。憲法論議を避けるたけに、又も中途半端な国際協調に終わるとすれば、いっそのこと日本は難民救済や医療支援を徹底して行う。正に危険をかえりみず、ひたすら人道支援に進む道もあったのではないか。国際貢献とは、ODAに湯水のごとく金をバラ捲くことではない筈である。 テロ法案が通過したら、すぐに、政権争いが表面化。国の将来そっちのけの権力闘争が透けて見えだした。日本の将来は危うい。

                              (平成13年11月)

古川 忠